こじんまりとした古本屋。本を読むということ。

うちの近所には、小さな古本屋がある(稀覯本の類を扱う古書店ではなく、中古本)。

 

僕が昨日行った時、店頭には60代以上と見受けられる男性2人。ただでさえ狭い敷地には、所狭しと本棚が立ち並ぶ。ある本棚とその向かいの本棚の間隔は狭く、人とすれ違うことにさえ難儀しそうなほどで、収納スペースを少しでも多く確保しようという心づもりが垣間見られる。それでも溢れかえった本は行き場をなくし、廊下の隅、本棚の上、置けるところならどこでもいいと言わんばかりに、そこらじゅうに散乱している。判型で分けられているだけで、レーベル、五十音、分野のどれにも関わらず綯交ぜにされているので、まさしく散乱だろう。

店内は古本特有のカビの匂いとわずかな埃、静けさの他には何もなく、客も僕の他には誰もいない。ここは「終わった本屋」なのかもしれないな、なんて失礼にも思ってしまった。

 

ともかく僕は店内を物色し(散乱しているからこそ、普段ならあまり見ない本にも出会える)、買おうと思った本を抱えていく。すると初めて、店員に声をかけられた。

「値段が書いてない本は番号で管理してるから、言ってくれたら教えるよ」

レジカウンターの中でPCを操作する、店主の声。恐らく僕はそこで初めて「客」として認められたのだ。商品を抱えたことで買う意思があると見なされ、そう判断された。「客」でないのなら、システムを教える意味はない。

これを不親切だと受け取るか、合理的だと受け取るか、どちらがより適しているのかは僕には判断がつかない。個人的な感情だけで言うなら、まあ、こういうのも好きだな、といったところ。

日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。

「正義と微笑」/ 太宰治

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さて、本に直接値札を貼らず(識別番号シールは貼っているのにだ)、それをPCで管理しているというのは、どういうことを指すか。

なんのことはない、この本屋は「終わった本屋」などではなく、今は対面販売よりネット販売に重きを置いた商売をしているのだろう、と推察した。実際に帰宅してから調べてみたら、そのとおりだった。

これにはもっと早く気付いてもよかった。僕はそういったサービスを日常的に利用しているのだから、ほかの人よりもずっと、それに気付くための材料は揃っていたはずだ。けれど気付くのが遅れたのは、店の雰囲気や店員が高齢であったことによるバイアス(あんなおじいちゃんがPCをバリバリ使いこなしているわけがない)のせいで、やはり認知の仕組みは面白いな、などと。

帰り際に、店主と二言三言交わした。要約すると、こうだ。

「本を読む人ってのはいいよね。人との会話から得られることもあるけれど、それは教養のある相手との会話じゃなきゃだめで、そういう相手を見つけるのは効率があまりよくないからね。それにそうした会話の意義を深めるためにも、自分の考え方を読書を通じて持っておくことは肝要だ」