思考の限界

小説やラノベ、アニメなどの感想で「話のつじつまが合ってない」「設定が破綻している」といったような感想を時折見かける。その指摘はもちろん的を射ていることもあるのだが、僕の主観においては、実際にはそんなことはない例のほうが多いように思える。だとすれば彼らは、どうして「破綻している」と感じ得たのか?

「IQが20違うと話がかみ合わない」なんて俗説があるが、この問題はそれに類似している気がする。「IQが20違うと~」はもう少し言うならば「話題が合わない」という場合と「理解の速度の差が円滑な会話を阻害する」という場合があり、ここでは後者について言及する。

ここで注目したいのは、容易に理解ができない会話に際した時、それは論理的に理解することが不可能であるという意味でなく、あくまで理解の速度に差があるだけである、という点にある。これはスピードの問題でしかなく、時間をかけさえすれば理解に至ることができる。

そしてそれよりもずっと深刻な問題であるのが、脳の認知的な錯覚にこそある。つまり彼らが言う「破綻している」とは「自分には理解できない(時間をかければ理解し得る)」という意味で、それを無意識のうちに、作品のほうに問題があるのだと錯覚しているのだ。

「思考の限界」とは元々の意味を辿れば「言語表現の限界」に他ならないだろうが、各人における思考の限界(のようなもの)のほうがずっと、厄介な存在らしい。

三      事実の論理像が思考である

三・〇〇一  「ある事実が思考可能である」とは、われわれがその事態の像をつくりうるということに他ならない。

三・〇四   ア・プリオリに正しい思考があるとすれば、それは、その思考が可能であるというだけでそこからその心理性が引き出されてくるようなものである。

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今日の、こんなゆるい企画でいいの?