大人の賢さ、あるいはずるさ

僕が子供のころ、僕の周りでは「大人はずるい」ということがよく言われていた。それと同時に、大人が賢くて、すごい存在なのだと無意識に信じられていた。

今日、僕の周りでは「大人っていざ自分がなってみると、大したことなかった」と言われている。気がついたら年齢ばかりが「大人」に成長していて、中身のほうは子供のままだ、ということだ。

 

大人の「賢さ」については、少し考えてみればわかることがある。子供の身近にいる大人というのは、親にしろ、学校の先生にしろ、習い事をやっているならその講師にしろ、何かを教えてくれる人、というのがほとんどだ。これが「大人は賢い」というイメージの正体であるような気がする。

大人の「ずるさ」についてはどうだろう。親から勉強をするように命じられて「でもママはやってないじゃん!」などと反抗すると、たちまち「ママは大人なんだからいいの!」などと一蹴されてしまう。これを素直に受け取れば「勉強しなくていいなんて、大人はずるいや」と思うし、あるいはその論理性の欠陥に気付いてしまえば「間違ったことを言ってるのに無理やり押し通せるなんて、大人はずるいや」となる。

前の例については、大人になったらやることが変わるだけなので置いておくとして、問題は後者である。この「ずるさ」とは、言ってしまえば「矛盾を見逃す鈍さ」だ。ここまで読めばお分かりのとおり、いつもしているあの話を、別の角度から語っているだけである。

 

「狡猾」という言葉がある。これは「悪賢い」という意味で、もう少し噛み砕いて言えば「ずる賢い」という意味だ。

しかし考えてみれば、「悪い」というのは他者から見た評価でしかなく、本人の意思とは無関係だ。その上観測する視点が変われば、容易に変動する評価でもある。だから「悪賢い」なんて曖昧な評価をせずに、ただ「賢い」でいいのではないだろうか。そして「賢い」人が知恵を働かせて独占的な利益を得ようとしたとき(悪知恵を働かせたとき)、それが「悪賢い」と評価されないようにカモフラージュするのは、やはり「賢さ」のなせる技だ。ここで起きているのは「賢い」人が「悪賢い」ことをやって「賢い」と評価されることであり、だとすれば「悪賢い」というのは「賢さ」が足りない人に与えられるものだということになってはしまわないだろうか。

そしてこう考えてみると「賢さ」と「ずるさ」はほとんど同じ意味であり、大人の賢さ(ずるさ)とは「矛盾を見逃す鈍さ」だということがわかる。