心地良い孤独と、甘美な幻想 『少し変わった子あります/森博嗣』

不思議なものだ。正体も知れず、また、掴みどころもない。それなのに、確実にそこに存在し、そして、こんなにも期待ができるなんて。その店自体が、まさにそんな仕組みなのである。(P.71)

 少し変わった子あります / 森博嗣

森博嗣の新境地――。

この世界では、誰もが"少し変わっている"。

著者紹介

 

元工学博士・国立N大学助教授にして、作家の森博嗣(もりひろし)。

『すべてがFになる』で、第1回メフィスト賞を受賞してデビューしました。

累計100万部近いヒットを飛ばして、実写ドラマ・アニメ・マンガ化された同作をはじめ、押井守監督により映画化された「スカイ・クロラ」他、著書多数。

その徹底した論理考証と淡々とした描写から、氏の作品は「理系ミステリ」と呼ばれることもあります。

読んでるだけで少し頭が良くなった気になれるような洞察の深さと、私たちが日常の中で無意識に感じている問題の本質をズバリ言い表す着眼点の鋭さが魅力的な作家です。

 

 

あらすじ

 

後輩の荒木が失踪した。

大学教員である主人公の小山は、前に荒木がしていた話を思い出していた。

それは、一風変わったとあるレストランの話。訪れる度に毎回場所が変わり、訪れる度に提供される料理が変わり、そして訪れる度に、違う女性が相伴してくれるのだという。

その女性はこちらを接待してくれるわけではないし、飛び抜けて話が上手いわけでも、テレビの向こうでしか見たことがないような絶対の美女というわけでもない。

どこにでもいるような普通の女性で、どこにでもいるように普通の服装をしている。どこにでもいるように自分から話しかけてくる女性もいれば、どこにでもいるようにほとんど話さない女性もいる。

ただし彼女たちの食事の仕方だけは別格で、非常に洗練されている。この上なく上品な仕草で、荒木はそれを「ある種のアートだ」とさえ表現していた。

荒木の影を追って訪れたその店で、小山は"少し変わった子"に惹かれていくのだが――。

 

感想

この幻想的な物語は、主人公が店を訪れる一夜ごとを描いた、連作短編形式で綴られています。初めは、失踪した後輩の手がかりを求めて入店した主人公でしたが、その形容しがたい甘美な雰囲気と、他では得がたい静謐さに、次第に惹かれていきます。相伴する女性は毎回別の人で、その誰もが少し変わっています。そして名前を聞くことも許されなければ、店の外で会うことも許されません。ただその場限りの、他人のような関係です。

さて物語はアクション的な起伏があるわけではなく、むしろ静けさに包まれています。これから起こる出来事ではなくて、起きている出来事に対して考えさせられます。

一話ごとに語られるテーマが移り変わり、それによって少しずつ全体像が浮かび上がってきて、ようやくそれが見えたかと思えば、その時には自分がその像の中に取り込まれている。初めての読書体験で、ある種の極地であると言っていいでしょう。

表現媒介としての言語の魅力というか、普段の生活ではあまり辿り着けない境地に、文章だけで表現したからこそ辿り着くことができた。しかしそれは実査には、普段の生活にこそ存在するものなのですから、これはいささか逆説的です。

閑話休題

そんなことを書いていると、なんだか小難しい内容の、とっつきにくい作品と思われるかもしれませんが、それが全くそんなことはありません。テンポよく読み進められる、簡潔ながらも流麗な文章。構造としても連作短編なので一話一話をさくさくと読め、それなのに気付いたら色々と考え始めている自分がいて、自分が取り込まれていることに気づくのです。

あぁ、少しずつ店に惹かれていく主人公も、きっとこんな感覚を共有していたのかなと考えると、面白くなってきます。

私の知っている限りにおいてこういう形態の店は現実には存在しませんが、上記を踏まえると、読書によって私はその店に訪れていたのかもしれません。

さて、以下はおまけ。

付記:心地良い孤独

 「孤独」と聞いて、皆さんが思い浮かべるのはどんな印象でしょうか。

試みに辞書を引いてみると、以下のように定義されていました。

【孤独】こ-どく

仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。

 自分はひとりぼっちだという感覚。心の通じ合う人がなく寂しいという気持ちを、特に孤独感という。

 こうして見てみると、ひどく後ろ向きで、出来ることならば味わいたくないネガティブな感情のように思えますが、では心地よい孤独とはなんでしょう。

そもそも孤独というのは、他者との関係、つまりは社会性によって初めて知覚されうる概念です。孤独を知覚するためには、孤独でない状態を知っていなければなりません。その対比によって初めて知覚しうるもので、例えば生まれたときから一人きり、だだっ広い荒野で誰にも会わずに育ったならば、その人は一生孤独というものを理解しえないでしょう。小説などを読んで(もし読めたとしたら)想像することはできるかもしれませんが、それは理解とは程遠いものです。

しかし当然現代にあって、なんらの社会性も持つことなく生きることは不可能である以上、必ずこの孤独というものは私たちについてまわります。

思うに「孤独」というのは「自分は他者とは違う」という認識からくるものではないでしょうか。例えば、友達がそのまた友達と複数人で食事に行ったという話を耳にしたとき、そこで感じる孤独は「自分はその場にいなかった」という事実によるもので、これはやはり明らかに「自分は違う(その集団に属していない)」という認識にほかなりません。人間の心理のひとつに、相手に自分との共通点が認められたら安心する、というものがあります。孤独を満たそうと連れ立って飲みに繰り出す人は、そこで無意識に相手との共通点を探して「あぁ、自分だけじゃなかった」と安心するのです。

さて、この孤独について、作中に興味深い記述があります。

どうもあの店は、私にとって「孤独増幅器」のように働きかけるようだ。店を出れば二度と会うことのない相手と、短い時間、二人だけで食事をする、たわいもない会話をする、あてもない想像をする。さてそのあとに何が残るのか、といえば、それは一人だけの自分であり、ふと気が付けば、鏡の前に一人たって、己の顔をじっと見つめている、そんな覚醒にほかならない。(中略)なるほど、これが孤独というものの作用か。自分の中へ切り込んでくるような力強さと、その刃先が全身を突き通すときのなんともいえない不思議な爽快さ。さっと風を切る一瞬のような清々しさ。慣れないうちは恐怖で目をつむってしまったけれど、一度無害だと慣れてしまえば、こんなに心地よいものはない。その刃が身を貫くたびに、私のからだが純粋に近づくような幻覚さえある。(P,121)

 考えてみると、この「孤独」というものには二種類あるような気がしてきます。

それはつまりベクトルの違いで「外から内へやって来る孤独」と「内から湧き出る孤独」です。私たちが恐れている孤独というのはこのうち前者にあたり、 またこの世に存在する孤独(言語表現としての孤独)のほとんどが、同じく前者にあたるでしょう。というより大体の人は、前者の意味でしか孤独という概念を使っていないのでしょう。

本書のテーマのひとつでもある「心地よい孤独」とは、まさに後者の「内から湧き出る孤独」のように思えてならないのです。そしてこの「内から湧き出る孤独」というのは、以下のようなことでしょう。

正直なところ、彼女に今一度会えるならば、と考えないではなかったけれど、しかし、それこそ野暮というもの。今夜の月は、きっと今夜だけのものなのだ。今頃、彼女も同じ月を見ているかもしれない、その想像にこそ価値がある、とようやくこの歳になってわかったしだいである。(P,90)