クリムト展と、勉強の意義。

5月1日。水曜。東京は上野。東京都美術館で開催中の、クリムト展へ足を運んだ。

外交樹立150年、クリムト死没100年を記念した、大規模な展示。連日、大勢の人でごった返していた。

チケットを購入し、待機列にならんだ後、入場。会場内は人がひしめき合い、順路に沿った列をなしている。みんながその列の一部になって、その流れに見る対象、時間を意識もせぬままに管理され、それを当たり前だと受け入れている。

 

僕はこうした展覧会で、いつも決まって考えることがある。つまり人間の傲慢さというか、業みたいなものだ。過去の傑作であるとか、自然に生きる動植物だとかを折に閉じ込めて、アトラクションとしてパッケージングして、それを上からの目線で、我が物顔で評するのである。

言ってしまえば、その俗物っぽさが気持ち悪いのだ。全く洗練されていない。どろどろしたものが、地上にまとわりつくようにどんよりと沈んで、這いずるかのごとくうごめいている。どうしてそこまで無神経になれるのか。

 

とにかく鑑賞というものは、対話を試みることではじめて意義を持つ。美術鑑賞に限らず、読書でもなんでもそうだ。「良書を読むことは過去の最良の人物たちと会話することだ」と言ったのはデカルトだったか。

だから僕たちは、その絵の精巧さ、巧さに感動している場合ではないのだ。人物画を見て「なんか今にも飛び出してきそう」なんて使い古された表現を口なんて以ての外だ(これは実際に会場内で聞いた言葉、そのままである。ひどくナンセンスで頭痛がするようだ)。絵の上手さなんてのは、そこに展示されている以上大前提で、いちいち取り沙汰するほうが失礼だ。そこに何が表されているのかをこそ、僕たちは見るべきなのだ。そしてもちろん、対話というからには、こちらからも語りかけねばならない。

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対話を試みるためには、その前段階として、知識が必要になってくる。展覧会では音声ガイドというものがあって、その作品や背景についてを音声で解説してくれるものなのだが、その意味でこれは、通訳であると言えよう。

勉強の意義というのは、つまりここにこそあると考えている。鑑賞や読書に限らず、目に映るあらゆるもの全て、その解像度を高めてくれる効果を持っている。