最近、なんだか鈍感になってはいないか

最近、なんだかみんな、鈍感になってはいないだろうか?

鈍感というより、本来あるべきはずの機能の一部が麻痺している、というほうが近いかもしれない。

ともかく、今日はそういう話。

 

「炎上」、というものがある。

今回取り上げるのは、インターネット上におけるそれだ。詳細な定義が気になる人は、各々調べてほしい。

 

上の原因となる発言、文章というのは、必要以上に強い感情を伴った言葉が使われていることが多い。これは恐らくここまで読んでいる君なら、説明するまでもなくイメージがつくだろう。

そういった言葉選びをする理由は、より多くの注目を集めたいからではないか。同じ内容でも、当たり障りのない表現で発信したら、軽く納得されて流れていく。強い表現を使えば、受け手にもより強い感情を与えやすい。フックが多くなる、ということだろう。

それはどちらかというと、受け手側の問題なのかなと僕は考えている。

発信する側はより受けるものを生み出そうとする。作家でも芸術家でも音楽家でも、それたらしめているのは受け手だ。あるいは受け取り方の問題である、という言い方もできるだろう。

 

コンテンツが飽和しているから、情報を取捨選択しなくてはならない。必然的にその行為は必要になるのに、それを意識していない人は多い。

そういった手合いが重要視するのは、わかりやすさだ(もちろんこれさえも意識していない)。

 

わかりやすいというのはつまり、そこから新たに得られる情報が少ないという意味である。込められている情報量が元から少なければ当然のことだし、情報量が多くても、それらが元から知っている情報であれば「わかりやすい(認知的不可が少ない)」ということになる。

 

ならば、そういうところで埋もれていく情報のほうが、僕たちにとって価値があるのではないだろうか。

はたまた鈍感になりすぎて、それさえも判断できないかもしれない。