僕はもう既に生き終わった

「僕はもう余生を過ごしているつもりでいる」なんて誰かに話すと、大抵の場合で笑われる。「まだ、たかが21歳じゃないか。早すぎるよ」「これからの人生の方がずっと長いんだから」といった具合だ。

つまり彼/彼女らは、時間の長さを尺度にして、否定しているように観察される。けれどそれって、そんなに重要なことだろうか? その理屈に則って考えるなら、恐らくは定年がひとつの基準になる。けれど定年なんて、今ではほとんどあってないようなものだ。あるいは、寿命全体に占める割合で考えるなら、僕が明日死ぬ可能性はいくらでもあるのだから、やはりこれも腑に落ちない。

最も一番悪いのは、あえて冗談めかして言った僕だ。

 

まあ、とにかく、僕は今、余生を過ごしている。

そんな生き方のほうが、僕には合っているように思えるのだ。

別に死んでいるなんて思ってないわ。でも、たとえば、家の台所のゼラニューム、あれは何度も何度も花を咲かせるけれど、植物によっては、たった一度しか花を咲かせないものもあるでしょう。一度咲いたらそれでおしまい。それからは枯れずに生き続けはするけれど、でも、その植物にとってはもう生き終わったことになるのよ。

草の竪琴/トルーマン・カポーティ

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「目標は高く持ったほうがいい」なんて話を、巷間よく耳にする。とても耳触りの良い言葉だ。

耳触りの良い言葉というのは、そのほとんど全てが役に立たない。

けいおん!の澪に触発されて、右利きのくせに買った、レフティジャズベース(サンバーストカラー)くらい役に立たない。並べて飾ることはできるが、すぐに埃をかぶる運命にある。

目標を必要以上に高く設定した人は、みんな口を揃えてこう言うだろう。

「達成できなかったけど、まあ高すぎる目標だったし仕方ないよね」