人間の重さ

彼は浴槽の中で、意識を失っていた。

僕は彼の身体を、引っ張り上げる。

僕の他にもう2人、同じように彼を引っ張る者。

とにかく、気づいたらそうなっていた。

 

意識を失っている人は、重いと言う。これは重心の問題で、意識がある人は無意識のうちに抱えやすいよう、重心が安定しやすいように動くからなのだとか。

んん、意識がある人は無意識に? けれど無意識だと重い? 単なる言葉遊びに留まらず、面白い意味を見いだせそうだけれど、今日はそういう話じゃなかった。

 

大の大人3人で(――『大の大人?』)力を合わせ、どうにかこうにか、ベッドまで移動させることに成功する。遅れて、救急車のサイレン。

何から逃げているのか?

天国大魔境を2巻まで読んだ。

「このマンガがすごい! 2019」の、オトコ編1位だとか。

壁に囲まれた楽園で暮らす子供たちと、その外の崩壊した世界で暮らす人々の話。

 

たとえば「約束のネバーランド」。たとえば「Dead by Daylight」。たとえば「天国大魔境」。

ここ数年はそんな、閉鎖された世界で、絶対的な存在から逃げたり、あるいは立ち向かったりというストーリーの作品がヒットを続けている。

もちろん個々の作品の魅力は疑いようがないが、これが「売れている」ということは、これが世間に「受け入れられている」という意味であり、もっと言えば「望まれている」からこそ、こういった形で世に出てきていることになる。

今の世の中において、絶対的な存在に対抗するというストーリーは、なんだか風刺的にも思える。

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さて、表題のランキングで1位を獲得しているのはなぜなのか(何が受け入れられたのか)を考えるべく、同作を読んでみたわけだが、率直に言って、初めはいまひとつわからなかった。

デフォルメされたわかりやすい魅力が提示されるわけではなく、淡々と映像的に描写して、少しずつ謎が解けていくタイプのストーリーで、伏線の張り方は巧みで「絶妙になにかがありそう」と予感させられる。

 

わかりにくいタイプの作品なのに、なぜこうも受けているのか。そういった描写の仕方は、現在では忌避される傾向にあったのではないか。

少しネットで探ってみると、評価している人の大半が、元からの作者のファンだった。これまで積み重ねてきた読者との信頼関係を担保に、こういった話作りに踏み込んだわけだ。

この事実は僕の中に、相反する2つの感情を残した。

こじんまりとした古本屋。本を読むということ。

うちの近所には、小さな古本屋がある(稀覯本の類を扱う古書店ではなく、中古本)。

 

僕が昨日行った時、店頭には60代以上と見受けられる男性2人。ただでさえ狭い敷地には、所狭しと本棚が立ち並ぶ。ある本棚とその向かいの本棚の間隔は狭く、人とすれ違うことにさえ難儀しそうなほどで、収納スペースを少しでも多く確保しようという心づもりが垣間見られる。それでも溢れかえった本は行き場をなくし、廊下の隅、本棚の上、置けるところならどこでもいいと言わんばかりに、そこらじゅうに散乱している。判型で分けられているだけで、レーベル、五十音、分野のどれにも関わらず綯交ぜにされているので、まさしく散乱だろう。

店内は古本特有のカビの匂いとわずかな埃、静けさの他には何もなく、客も僕の他には誰もいない。ここは「終わった本屋」なのかもしれないな、なんて失礼にも思ってしまった。

 

ともかく僕は店内を物色し(散乱しているからこそ、普段ならあまり見ない本にも出会える)、買おうと思った本を抱えていく。すると初めて、店員に声をかけられた。

「値段が書いてない本は番号で管理してるから、言ってくれたら教えるよ」

レジカウンターの中でPCを操作する、店主の声。恐らく僕はそこで初めて「客」として認められたのだ。商品を抱えたことで買う意思があると見なされ、そう判断された。「客」でないのなら、システムを教える意味はない。

これを不親切だと受け取るか、合理的だと受け取るか、どちらがより適しているのかは僕には判断がつかない。個人的な感情だけで言うなら、まあ、こういうのも好きだな、といったところ。

日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。

「正義と微笑」/ 太宰治

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さて、本に直接値札を貼らず(識別番号シールは貼っているのにだ)、それをPCで管理しているというのは、どういうことを指すか。

なんのことはない、この本屋は「終わった本屋」などではなく、今は対面販売よりネット販売に重きを置いた商売をしているのだろう、と推察した。実際に帰宅してから調べてみたら、そのとおりだった。

これにはもっと早く気付いてもよかった。僕はそういったサービスを日常的に利用しているのだから、ほかの人よりもずっと、それに気付くための材料は揃っていたはずだ。けれど気付くのが遅れたのは、店の雰囲気や店員が高齢であったことによるバイアス(あんなおじいちゃんがPCをバリバリ使いこなしているわけがない)のせいで、やはり認知の仕組みは面白いな、などと。

帰り際に、店主と二言三言交わした。要約すると、こうだ。

「本を読む人ってのはいいよね。人との会話から得られることもあるけれど、それは教養のある相手との会話じゃなきゃだめで、そういう相手を見つけるのは効率があまりよくないからね。それにそうした会話の意義を深めるためにも、自分の考え方を読書を通じて持っておくことは肝要だ」

僕はもう既に生き終わった

「僕はもう余生を過ごしているつもりでいる」なんて誰かに話すと、大抵の場合で笑われる。「まだ、たかが21歳じゃないか。早すぎるよ」「これからの人生の方がずっと長いんだから」といった具合だ。

つまり彼/彼女らは、時間の長さを尺度にして、否定しているように観察される。けれどそれって、そんなに重要なことだろうか? その理屈に則って考えるなら、恐らくは定年がひとつの基準になる。けれど定年なんて、今ではほとんどあってないようなものだ。あるいは、寿命全体に占める割合で考えるなら、僕が明日死ぬ可能性はいくらでもあるのだから、やはりこれも腑に落ちない。

最も一番悪いのは、あえて冗談めかして言った僕だ。

 

まあ、とにかく、僕は今、余生を過ごしている。

そんな生き方のほうが、僕には合っているように思えるのだ。

別に死んでいるなんて思ってないわ。でも、たとえば、家の台所のゼラニューム、あれは何度も何度も花を咲かせるけれど、植物によっては、たった一度しか花を咲かせないものもあるでしょう。一度咲いたらそれでおしまい。それからは枯れずに生き続けはするけれど、でも、その植物にとってはもう生き終わったことになるのよ。

草の竪琴/トルーマン・カポーティ

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「目標は高く持ったほうがいい」なんて話を、巷間よく耳にする。とても耳触りの良い言葉だ。

耳触りの良い言葉というのは、そのほとんど全てが役に立たない。

けいおん!の澪に触発されて、右利きのくせに買った、レフティジャズベース(サンバーストカラー)くらい役に立たない。並べて飾ることはできるが、すぐに埃をかぶる運命にある。

目標を必要以上に高く設定した人は、みんな口を揃えてこう言うだろう。

「達成できなかったけど、まあ高すぎる目標だったし仕方ないよね」

 

大人になるということ - 自由の獲得編

子供ってなんだか窮屈だ。大人たちはいつも、子供に向かって、あれをしなさい、これをしさないと言ってくる。自分の力でできることは、限られている。

あぁ、それに比べて、大人のなんて自由なことだろうか。子供は「俺を子供扱いするな」なんて言いながら、早く大人になることを夢見ている。

 

自由を求めて、そのために活動し、その権利を勝ち取ることが、すなわち大人ということかもしれない。

けれど、窮屈な思いをしてようやく辿り着いた大人の権利を、しかし放棄しようという向きが最近は増えている。ずっと子供のままでいたい、とどこかで願っている。子供のころはあれほど大人になることを切望していたのに、どこでボタンはかけ違えられたのか?

人を自由にするのは、力だ。

人はそれを持っている。

自分の力を信じること、それが力の意味だ。

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自由というのは、つまり、自分で決定ができることだ。

「何を成すか」を決める自由ということであり、「何かから逃れる」ための自由ではない。

 

 

 

大人になるということ - 大人への諦め編

大人になるということは、どういうことか。大人と子供は何が違うのか。

そういった議論が、僕の周りでたまにされているのを見るので、少し考えてみたいと思う。

 

無神経なやつ、という存在がいる。図太いやつというのか、鈍いやつ、周りが見えていないやつでもいい。こういった存在は、僕の体感する限りにおいて、年齢が高い(40代からといったところ)人のほうがより多いように思う。

僕はずっとこれを不思議に思っていた。僕よりもずっと経験が豊富なはずなのに、どうしてこの人はこんな簡単なこともわからないのだろう、と。

大人っていうのは、そんなものなのかと。

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大人ってなんだか、けっこう鈍いところがある。摩擦で磨り減ってしまったかのように、鈍感だ。それは醜くさえもある。

なんのことはない。それこそが、大人になるために必要な要素なのだ。いや、これは逆だ。これも逆だ。

とにかく大人になるにはそういった鈍さや醜さを、諦めて受け入れる必要がある。

 

これを逃れる唯一の方法が、死だ。

速読という病

書店に行くといつでも、速読術に関する本が並んでいる。ネット記事でも、速読について言及しているものが多く見られる。

このことからわかる通り、本を読む人というのは往々にして、1冊の読書にかける時間を短くしたい、と思う傾向があるようだ。

何を隠そう僕も、かつてそう思い、速読を学んでみた人の1人なので、今日はその話をしたいと思う。かつて、と過去形で語ってみても、やはり今でもその気持ちは少なからず残ってはいるけれど。まあ、時間かけてもいいんじゃない、って話。

 

速読術というのは、主に2つの要素から成り立っていると思ってもらっていい。

まず1つは、目の動かし方。(目をいかに動かさないか)

もう1つは、その分野に関する予備知識の量である。

 

目の動かし方について。

普段本を読むときには、文字を1字ずつ目で追いかけて、それを頭の中で音にする、という人が多いと思う。ここには2つの無駄がある。

1つは、頭の中でわざわざ音にしていること。これをやめるだけでも読むのがけっこう早くなるが、ここではこれ以上触れない。なお、僕は大体今でも音にして読んでいる。

もう1つは僕たち人間の視野は、1度に1字だけしか捉えられないほどに狭くないということ。だから、1字よりもっと範囲を広げて捉えることが可能だ。例えばまずは単語ごとに捉えるようにしてみて、それに慣れたらやがて文節ごと、行ごと、ページごと、と範囲を広げて捉えることができるようになる。目をいかに動かさないか、とはそういう意味である。

練習していけば、目をあまり動かさずに、そのページにどんな内容が書いてあるのかが掴めてくる。もちろん読書の速度は飛躍的にあがる。

しかし当然これは、本の細かい味わいを殺してしまう。

 

 

予備知識の量について。

前回のブログでも触れたが、その分野に関する知識を既に持っていれば持っているほど、それに関する文章についての認知的不可は小さくなる。これによっても読書の速度はグンとあがる。しかしこれは前回も言及した通り、新たに得られる情報が少ないという意味に他ならない。

既に読了した本について、後から必要な情報を拾うためならこれはまあまあ有用とも言える。

 まあまとめると、一長一短ってことですかね?