最近、なんだか鈍感になってはいないか

最近、なんだかみんな、鈍感になってはいないだろうか?

鈍感というより、本来あるべきはずの機能の一部が麻痺している、というほうが近いかもしれない。

ともかく、今日はそういう話。

 

「炎上」、というものがある。

今回取り上げるのは、インターネット上におけるそれだ。詳細な定義が気になる人は、各々調べてほしい。

 

上の原因となる発言、文章というのは、必要以上に強い感情を伴った言葉が使われていることが多い。これは恐らくここまで読んでいる君なら、説明するまでもなくイメージがつくだろう。

そういった言葉選びをする理由は、より多くの注目を集めたいからではないか。同じ内容でも、当たり障りのない表現で発信したら、軽く納得されて流れていく。強い表現を使えば、受け手にもより強い感情を与えやすい。フックが多くなる、ということだろう。

それはどちらかというと、受け手側の問題なのかなと僕は考えている。

発信する側はより受けるものを生み出そうとする。作家でも芸術家でも音楽家でも、それたらしめているのは受け手だ。あるいは受け取り方の問題である、という言い方もできるだろう。

 

コンテンツが飽和しているから、情報を取捨選択しなくてはならない。必然的にその行為は必要になるのに、それを意識していない人は多い。

そういった手合いが重要視するのは、わかりやすさだ(もちろんこれさえも意識していない)。

 

わかりやすいというのはつまり、そこから新たに得られる情報が少ないという意味である。込められている情報量が元から少なければ当然のことだし、情報量が多くても、それらが元から知っている情報であれば「わかりやすい(認知的不可が少ない)」ということになる。

 

ならば、そういうところで埋もれていく情報のほうが、僕たちにとって価値があるのではないだろうか。

はたまた鈍感になりすぎて、それさえも判断できないかもしれない。

完全と不完全、揺らぎと捻じれ『彼女は一人で歩くのか?/森博嗣』

次の世代など不要だ。今の自分たちに永久の生が保証されるならばそれで良い。しかも、それが豊かで楽しい生であるならばなおさら、ということか。

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? / 森博嗣

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あらすじ

今から二世紀後の未来。日本。

人工細胞と医療技術の発達により、ヒトの寿命は半永久的に長くなり、その平均は推定190歳にまで伸びた。

しかし時を同じくして発生した、世界規模の問題。子供が生まれないこと。

一方で登場した、ウォーカロンという生命体。

彼/彼女らのボディにも同じ技術が用いられ、培養された人工細胞で出来ている。また思考回路も、人工知能の系譜を継いで、ヒトのそれを再現することに成功している。

だからヒトとウォーカロン。その両者にはハード的にもソフト的にも、もはや違いはない。ルーツが違うだけだ。

 

主人公のハギリ・ソーイ博士は、脳波の測定により、両者を判別する方法を研究している。その研究が必要とされる程度には、両者の違いは希薄だという意味でもある。

そんな彼はある日、何者かに命を狙われる。

その研究成果こそが、襲撃された理由だった。

 

感想

さてこの作品、どこだかで見かけた「今まで考えたこともなかったけど、一度そうかもと思ったら、そうなるとしか思えない未来」という形容がしっくりくる。

世界設定を作りこんだハードSF寄りの作品は、小難しい説明描写が多くて苦手だという向きも多いだろう。

しかし森博嗣作品に特有の「必要な情報を、必要な分だけ描写する」という傾向は本作でも健在だ。あくまでテーマを語るために世界設定が必要だから、そのためだけに描写されている印象を受ける。

つまり説明的な要素は少なく、アクションも取り入れてスピーディに展開するので、SFにこれまで食指が伸びなかったけど、という向きにも薦められる。

「ウォーカロンを見抜いてやろう、というつもりは全然ない。そうじゃなくて、ただ、人間らしい思考というものの本質が知りたかったんだ。人間はどんなふうに考えているか、ということが、つまり人間とは何かという問題の答になると思った」 

付記:完全と不完全の捻じれ

人間とほぼ判別ができない存在を設定し、両者の判別方法や思考プロセスの違いを探るというストーリーは、「人間とは何か」という問いにダイレクトに跳ね返ってくる。人間の思考・感情とは何か、という意味だ。

ウォーカロンの思考はそもそもが人工知能の系譜にあるから、人間の思考にあるようなノイズが含まれない。人間と違って「ひとつのことに集中できる」ということだが、これは同時に「ひとつのことにしか集中できない」という意味も持つ。

たとえば人間は、あることを考えていても無意識に他のことが頭をよぎり、思考が発散することがよくある。それが偶然に主題とうまく組み合わさって新しい発想が生まれたり、または何もないところからインスピレーション的に考えが生まれてくることもある。これは人間に特有のプロセスだと言えるだろう。

しかし一方で、このノイズが含まれるというのは「不完全」であることの証左でもある。同様に人間の身体についても、こういったノイズを含んだ「不完全」な細胞で構成されているが、この時代の人工細胞は既にそういった不純物を取り除いた「完全」な細胞となっている。

つまり人類は、完全な方向に向かっている。

「綺麗すぎるから、完璧すぎるから、という説明では、不足ですからね」「不足だ。そんな理由はありえない。何十年もそれが定説のように語られているが、その仮説を許容すれば、すべての生き物は不完全ゆえに繁栄したことになる」「私は、そうじゃないかと考えています。完璧になったところで終焉だったのです」

これは子供が生まれなくなった原因についての議論だが、不完全ゆえに繁栄・発展したというのは非常に興味深いところだ。少なくとも人間の思考や感情については、論理に沿わない不完全なプロセスに基づいたものがかなり多い。このあたりに、本質が潜んでいそうな気がするが、まだまだ答えは出なさそうだ。

いや、これもただ、人間を複雑なものだと思い込んでいるだけかもしれないが。

「複雑だと思い込みたい傾向を人間は持っているんだ。自分たちを理解しがたいものだと持ち上げたい心理が無意識に働く。でも、誰もがだいたい同じように怒ったり笑ったりしているんじゃないかな」 

 

不完全に惹かれる僕たち

少年マンガの主人公は、必ず能力と引き換えに致命的な弱点を持っている。

完璧な人間より欠けている人間のほうを「人間味がある」なんて言ってより強い好感を持つ。

初めから出来る成功より、失敗を積み重ねた先の成功により価値を感じる。

あるいは、整いすぎた顔立ちの美人を、「怖い」だなんて評価する、とかも似ているだろうか。

 

僕たちはそのように、完全なものよりむしろ不完全なものを好むことがしばしばある。

なぜだろう? 常に良い状態を保つほうが、定量的な評価では明らかに優れている。幸福の総量も、そちらのほうが多いだろう。

常に良い状態だと、いつしかそれが普通だと錯覚してしまうからだろうか。

(確かに現象の中にいながらにして、その限界を想像することは難しい)

それもあるだろうが、本質はもう少し違うところにあるのではないかな、と思う。

 

それはつまり、僕たちが評価するのは、量ではなく加速度であるということだ。

 

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ブランコを想像してみるとわかりやすい。

あなたにとって1番プラスな状態が、ブランコが1番前に触れている時。1番後ろに触れている時が、反対に1番マイナスな状態だ。

最も前にいる瞬間というのは、前に働く力と後ろに働く力が吊りあっているから、加速度はゼロになる。

 

この加速度が1番大きくなるのは、量がゼロの地点。

プラスがマイナスに、マイナスがプラスに転じる瞬間だ。

そしてどうやら僕たちの感情の大きさは、この加速度に比例しているようだ。

より大きなプラスを得るには、より大きくマイナスに触れる必要がある。

より高く飛ぶためには一旦沈む必要があるとか、助走をつける必要があるとか、そういう話とはまた別だが。