今週の面白かったこと #2

見つけた面白い記事とかの備忘録。

毎週火曜日くらいに更新。

今回はこんな感じ。

「欠陥のある自動採点システム」が何百万人もの学生の小論文を評価している

 https://gigazine.net/news/20190902-flawed-algorithms-grade-millions-essays/

アルゴリズムを用いた「自動言語処理AIシステム」、通称「小論文自動採点システム」はアメリカでは一般的になりつつあるが、文章の採点に関しては、AIはまだ信頼性に問題があるのだという。

調査によると、このAIの採点には、特定の人種・国籍に対してバイアスのかかった採点をすることが明らかになった。中国の学生には高い点数を、アフリカ系アメリカ人の学生には低い点数を付与するというものだ。

 

https://gigazine.net/news/20181011-amazon-secret-ai-recruiting-tool/

またAmazonにおいては、就職希望者の履歴書をAIで評価するシステムが「女性蔑視だった」として廃棄されている。2015年のことである。

 

こういった記事に触れて「やはりAIは使い物にならない」などと、一辺倒な評価を下すのは危険というものだ。AIのそういった障害を生み出しているのは、他ならぬ私たちのバイアスなのだから。

どういうことか。

AIが小論文や履歴書を評価するときに用いる判断基準は、人間のそれを参照して作り上げられている。小論文で言えば過去に採点がされてきた数々のデータを、Amazonの例で言えば自社内で評価されている人物を参照し、どのような人材を欲しがっているのかを判断する。

AIが学習の材料にしたそれらのデータは、やはり同じように人種差別がされていたし、女性差別がされていたので、AIもそれにならって「差別」をしたというだけのことである。AIはそういったバイアスを、よりわかりやすい形で可視化してくれるだけにすぎない。

 

僕の友達にはAI肯定論者(正確にはシンギュラリティを待望している人)がいるのだが、彼は「はやくAIが普及して、人間が働かなくてもいいようになってほしい」と冗談半分に言う。そこにベーシックインカムの運用も加えれば、十分に実現可能性のあるビジョンだ。宗教的なものの入り込む余地がなくなりつつある現代において、次に信仰される神が誕生するとすれば、その正体はAIかもしれない。しかしその未来にたどり着くには、まずこういった私たちのそれに基づくバイアスを排除しなければならなさそうだ。

 

人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だった

https://wired.jp/2019/09/01/recursive-language-and-imagination/

人類(ホモ属)には、かつて私たちの種(ホモ・サピエンス)以外にも多様な種が存在したことは、今日では広く知られている。ネアンデルタール人ホモ・エレクトゥスがその代表例だ。

ホモ・サピエンスが誕生したのはおよそ60万年前(諸説あり)であるが、その時点では今のような支配力はなく、ただの一個の人類種に過ぎなかった。それどころか人類は、食物連鎖のピラミッドにおいて中間くらいに位置する、取るに足らない生物であった。では私たち人類は、どのように食料を得ていたのか?

サバンナにおいて連鎖の頂点は、大きな躰と強い攻撃力を持った種、すなわちライオンだ。ライオンが狩りでしとめ、食らったあとの獲物には、まだ幾らかの肉が残っている。運動能力が劣る他の種にとって、それは貴重な栄養源になりうる。すると人類は、そのライオンの残飯を漁っていたのだろうか? いや、それすらも人類には危険すぎる。次に登場するのはハイエナで、彼らがライオンの残飯を綺麗にたいらげる。その食事が終わるとようやく、人類は周りに敵がいないことを注意深く確かめながら、その残飯へと忍び寄る。もはや肉など残っていない、ただの骨がそこにある。人類はその骨を割って開くと、中にある骨髄を吸って食らった。これが当時の人類にとって、貴重な食料だったのだという。

そんな人類の1種であるホモ・サピエンスが、支配力を持ち始めるようになったのは、およそ7万年から3万年前にかけて起こった「認知革命」によるものだと考えられている。(本記事では「認知革命」という単語は出てこないが、認知革命についての記述と捉えて相違ない。農業革命・科学革命と並ぶ人類の三大革命のひとつであるところの認知革命について、詳しく知りたい諸氏はユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読むといいだろう)それは一言でいうと、「新しい思考と意思通達の方法の登場」だ。

前述したサピエンス全史では、認知革命が起こった理由についての説明がない。というより、未だ判明していないのだろう。その認知革命のきっかけについて考察しているのが、本記事だ。

 

魔女たちはなぜ、魔女になったのか

https://www.toibito.com/column/humanities/ethnology/1641

魔女と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。

ある者は胡散臭いと眉をひそめるかもしれないし、またある者は魔女裁判の凄惨な歴史を連想するかもしれない。どちらにしても、現存する職業のひとつであると認識している日本人は、おそらく少数派に属するだろう。

ルーマニア、イギリス、ドイツなどの国では、職業として魔女が存在する。

ことにルーマニアでは、魔女は国家資格でさえあるし、国民の半分以上が魔女の力を信じているというデータも存在する。

対して本記事で扱われているイギリスの魔女には、魔女になるための条件は存在しない。正確には「今日から私は魔女として生きる」と宣言するためのイニシエーションとしての儀式は存在するが、つまり魔女になるのは自己申告制ということだ。

さらに由緒正しい魔女の家系に生まれる必要も、魔女を養成する学校に通う必要もなく、魔女になるための知識は通信教育で得られるのだと言う。

こういうの知識のアップデート、直接何かに結びつくことはないだろうけど、大事じゃね? てか単純に面白くね?みたいな。

 

以下、記事の紹介に留める。

 

哲学がないと人類は生き残れない!?

http://toshin-sekai.com/interview/11/

奇習! 大きな乳首の女性を“生き神様”として珍重&崇拝!

https://tocana.jp/2019/08/post_107542_entry.html

店のメニューにはない「タラコスパゲティ」を注文できる人になるまでの話。

https://note.mu/zimuing/n/n1a3fa3ea95cd

 

 

今週の面白かったこと #1

見つけた面白い記事とかの備忘録。

毎週火曜日くらいに更新。

 

今回はだいたいこんな感じ。

一本目だけやたら長くね? 暇な人だけ読んで。

漫画における記号的表現とその周辺

ゲンロンβ39 さやわか 記号的には裸を見せない ――弓月光と漫画のジェンダーバイアスについて

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%CE%B239-%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80-ebook/dp/B07VCK5QX6

ある女性漫画家が、自身の作中で登場人物に「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」と語らせた。

これについて同氏の主張をざっとまとめると、だいたい以下のとおりだ。

性別に基づく偏見(男らしさや女らしさという概念)が、悪意すらもなく、偏見と意識されずに少女漫画・女性漫画の中で垂れ流されている。作家や編集者が、無意識のうちに偏った正意識で物語うを作ろうとすることを問題視している。

しかしこれには当然、以下のようなレスポンスがついた。

同氏の漫画は「美しい女性」を絵として描いている。それは「女らしさ」を利用していることにはならないのか?と。

これに対して、記事の著者であるさやわか氏は、こう述べる。

漫画は元来、記号性を重んじて成り立つ表現だ。この記号とは、わかりやすいやすいところで言えば「顔の上に雫のマークを描いたら、その人物は焦っている」というようなもの。

漫画は「こう描かれたら(記号表現)、こういう意味だ(記号内容)」という体系を歴史的に築いてきた。その中には「イケメンはアゴが長い」「ツインテールは幼さのある女性」「壁ドンは恋愛における押しの強さを示す」など人物の特徴を表すものから、「あだち充が描く、後ろを向いて片手を上げたキャラクターは去って行く」など状況や行動を意味するものまであり、漫画家は画面上にそれら記号を配置して作品を作る。漫画が記号的であるとは、極論すれば漫画が「絵」で描かれていながらも「文章」のよう に、記号の連なりとして読めることなのだ。

そしてその記号表現は、上記の引用の通り、文脈としてのそれも含まれている。今やそれは読者の間にも共有されており、だからこそ私たちはよりストレスレスに読書体験を得られる、というわけだ。

もう少し直感的にわかりやすい例を出そう。先日Twitterで、こんな漫画を読んだ。

https://twitter.com/hiyokobeya/status/1165532708878995456

画像2枚目まで読んだ時点で、多くの読者は「あっ、これ嫉妬して突っかかってくるやつだ!」と感じるだろう。そう感じることこそが、私たちが漫画の記号表現を共有していることの証左だ。(最もこの作品は、その記号表現を逆手に取っている)

 

記事の紹介はひとまずここまで。

弓月光さんを例に出して、議論はより面白い方向に進んでいくので、気になった人は購読すべし。

 

さて、このような前提を共有した上で、もしジェンダーバイアスを完全に排した漫画を作ることは可能だろうか?

まず外見的特徴を利用するのはいけない。そもそもオスとメスの区別もないほうがいいだろう。性別の概念がない、空想上の生き物たちに物語を展開させればいいのかもしれない。いや、その場合でも我々は、彼らの行動に「男らしさ」や「女らしさ」を感じ取ってしまうだろう。

 

認知心理学のとある実験がある。詳細や固有名詞は忘れたが、以下のようなものだったと思う。

被験者たちにある動画を見せる。画面の中では、△や□などの記号が動いている。□は画面の中を自由に動いているのに対し、△はそれよりも早いスピードで、□をめがけてぶつかっていく。動きの遅い□は△から逃れることができず、されるがままになっている。

ただそうプログラムされただけの動画で、そこに感情の類は発生していない。しかし驚くべきことに、被験者の多くは「△が□をいじめているように」思い、それどころか「□が可哀想」とさえ感じたという。

このように私たちの脳は、そもそも存在しないもの(この場合では感情)さえも、自分の中に持っている「記号表現」にあてはめて判断してしまうのだから、いくら制作者がバイアスを取り除こうとしたところで、結果につながるとは言えなさそうだ。

 

「男らしい行動」「女らしい行動」なんてものがあるの?という問題も、一応潰しておこう。代表例を上げると「女は買い物が遅い」というもの。これは偏見ではなく統計学的事実で、以下のような証拠もある。

原始の時代、男たちがケモノを狩っている間、女たちの仕事は木の実を集めることだった。男たちの行動には「狩ったら終了」という明確なゴールがあるが、女たちのそれには存在しない。みんなで探して、見つけた順に手当たり次第に拾っていくのみだ。男が「目的型」なんて言われるのは、このあたりに由来する。

 

ゲンロンβ39のこの記事、議論が成熟して行き着く答えもめっちゃ面白い。みんな読もう。

宇宙空間で初の犯罪容疑?NASA飛行士、口座不正侵入か

https://mainichi.jp/articles/20190825/k00/00m/030/023000c.amp

宇宙で犯罪ってすごくない? こういうミステリ小説が今後出そう。

ってかもうあったりする? 清涼院流水とかやってそう。読んだことないけど。偏見。

 

ざっくり調べてみると、取り決めは以下の感じっぽい。

国際宇宙法によると、宇宙空間での犯罪行為は、ISSに登録しているものについては、登録元の国の法律が適用される。ようするに、今回の容疑者はアメリカに属しているから、アメリカの法律が適用される。逆に言えば登録していない人やものについては、適用できる法律は今のところなさそうだ。密出星したら犯罪し放題。

もし他国の搭乗員と揉めた場合、政府間協議での解決をはかると。

解説してるノートみつけた。

https://note.mu/47tplo_181023/n/n6be0d9ffc8a9

「キャラクター小説」というイノベーション

https://monokaki.everystar.jp/column/heisei/989/

メフィスト賞という小説新人賞がある。初期には京極夏彦森博嗣を、中期には舞城王太郎西尾維新辻村深月を、最近では早坂吝や井上真偽など、そうそうたる作家陣を排出する、とがった新人賞だ。

どれもクセの強い作家ばかりで、小説のあり方を変えてしまうほどの影響力を発揮した作品もある。その中でも、京極夏彦森博嗣について解説したのが、当記事だ。

森博嗣はデビュー当初、大型新人にありがちな「人間がかけていない」の洗礼を浴びる事になる。今ではもう少し多様な意味を持つその言葉だが、森博嗣のそれに関しては、確かにそのとおりの意味で「人間がかけていな」かったのだ。もちろんこれはよく知られているように、森博嗣はこれを意識的にやっている。登場人物の「キャラクター化」を完成させた第一人者が、森博嗣京極夏彦だと言っていいだろう。そしてこれを他ジャンルの文脈と融合させ、昇華させたのが、西尾維新である。

キャラクター化という先進的なギミックは、当時にしてみれば確かに「人間がかけていない」ように映ったことだろう。

「魔女のコミュニティ」はオンラインに移行中──SNSも使いこなす現代のルーマニアの“魔女”たち


https://wired.jp/2019/06/23/romanian-witches-internet/#galleryimage_491176-3493_1

女性アイドルの年齢多様化 - 白石麻衣27歳、秋元真夏26歳... 乃木坂46で「アラサー」の活躍が目立つ理由とは


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190825-00000000-jct-ent

大人の賢さ、あるいはずるさ

僕が子供のころ、僕の周りでは「大人はずるい」ということがよく言われていた。それと同時に、大人が賢くて、すごい存在なのだと無意識に信じられていた。

今日、僕の周りでは「大人っていざ自分がなってみると、大したことなかった」と言われている。気がついたら年齢ばかりが「大人」に成長していて、中身のほうは子供のままだ、ということだ。

 

大人の「賢さ」については、少し考えてみればわかることがある。子供の身近にいる大人というのは、親にしろ、学校の先生にしろ、習い事をやっているならその講師にしろ、何かを教えてくれる人、というのがほとんどだ。これが「大人は賢い」というイメージの正体であるような気がする。

大人の「ずるさ」についてはどうだろう。親から勉強をするように命じられて「でもママはやってないじゃん!」などと反抗すると、たちまち「ママは大人なんだからいいの!」などと一蹴されてしまう。これを素直に受け取れば「勉強しなくていいなんて、大人はずるいや」と思うし、あるいはその論理性の欠陥に気付いてしまえば「間違ったことを言ってるのに無理やり押し通せるなんて、大人はずるいや」となる。

前の例については、大人になったらやることが変わるだけなので置いておくとして、問題は後者である。この「ずるさ」とは、言ってしまえば「矛盾を見逃す鈍さ」だ。ここまで読めばお分かりのとおり、いつもしているあの話を、別の角度から語っているだけである。

 

「狡猾」という言葉がある。これは「悪賢い」という意味で、もう少し噛み砕いて言えば「ずる賢い」という意味だ。

しかし考えてみれば、「悪い」というのは他者から見た評価でしかなく、本人の意思とは無関係だ。その上観測する視点が変われば、容易に変動する評価でもある。だから「悪賢い」なんて曖昧な評価をせずに、ただ「賢い」でいいのではないだろうか。そして「賢い」人が知恵を働かせて独占的な利益を得ようとしたとき(悪知恵を働かせたとき)、それが「悪賢い」と評価されないようにカモフラージュするのは、やはり「賢さ」のなせる技だ。ここで起きているのは「賢い」人が「悪賢い」ことをやって「賢い」と評価されることであり、だとすれば「悪賢い」というのは「賢さ」が足りない人に与えられるものだということになってはしまわないだろうか。

そしてこう考えてみると「賢さ」と「ずるさ」はほとんど同じ意味であり、大人の賢さ(ずるさ)とは「矛盾を見逃す鈍さ」だということがわかる。

心地良い孤独と、甘美な幻想 『少し変わった子あります/森博嗣』

不思議なものだ。正体も知れず、また、掴みどころもない。それなのに、確実にそこに存在し、そして、こんなにも期待ができるなんて。その店自体が、まさにそんな仕組みなのである。(P.71)

 少し変わった子あります / 森博嗣

森博嗣の新境地――。

この世界では、誰もが"少し変わっている"。

著者紹介

 

元工学博士・国立N大学助教授にして、作家の森博嗣(もりひろし)。

『すべてがFになる』で、第1回メフィスト賞を受賞してデビューしました。

累計100万部近いヒットを飛ばして、実写ドラマ・アニメ・マンガ化された同作をはじめ、押井守監督により映画化された「スカイ・クロラ」他、著書多数。

その徹底した論理考証と淡々とした描写から、氏の作品は「理系ミステリ」と呼ばれることもあります。

読んでるだけで少し頭が良くなった気になれるような洞察の深さと、私たちが日常の中で無意識に感じている問題の本質をズバリ言い表す着眼点の鋭さが魅力的な作家です。

 

 

あらすじ

 

後輩の荒木が失踪した。

大学教員である主人公の小山は、前に荒木がしていた話を思い出していた。

それは、一風変わったとあるレストランの話。訪れる度に毎回場所が変わり、訪れる度に提供される料理が変わり、そして訪れる度に、違う女性が相伴してくれるのだという。

その女性はこちらを接待してくれるわけではないし、飛び抜けて話が上手いわけでも、テレビの向こうでしか見たことがないような絶対の美女というわけでもない。

どこにでもいるような普通の女性で、どこにでもいるように普通の服装をしている。どこにでもいるように自分から話しかけてくる女性もいれば、どこにでもいるようにほとんど話さない女性もいる。

ただし彼女たちの食事の仕方だけは別格で、非常に洗練されている。この上なく上品な仕草で、荒木はそれを「ある種のアートだ」とさえ表現していた。

荒木の影を追って訪れたその店で、小山は"少し変わった子"に惹かれていくのだが――。

 

感想

この幻想的な物語は、主人公が店を訪れる一夜ごとを描いた、連作短編形式で綴られています。初めは、失踪した後輩の手がかりを求めて入店した主人公でしたが、その形容しがたい甘美な雰囲気と、他では得がたい静謐さに、次第に惹かれていきます。相伴する女性は毎回別の人で、その誰もが少し変わっています。そして名前を聞くことも許されなければ、店の外で会うことも許されません。ただその場限りの、他人のような関係です。

さて物語はアクション的な起伏があるわけではなく、むしろ静けさに包まれています。これから起こる出来事ではなくて、起きている出来事に対して考えさせられます。

一話ごとに語られるテーマが移り変わり、それによって少しずつ全体像が浮かび上がってきて、ようやくそれが見えたかと思えば、その時には自分がその像の中に取り込まれている。初めての読書体験で、ある種の極地であると言っていいでしょう。

表現媒介としての言語の魅力というか、普段の生活ではあまり辿り着けない境地に、文章だけで表現したからこそ辿り着くことができた。しかしそれは実査には、普段の生活にこそ存在するものなのですから、これはいささか逆説的です。

閑話休題

そんなことを書いていると、なんだか小難しい内容の、とっつきにくい作品と思われるかもしれませんが、それが全くそんなことはありません。テンポよく読み進められる、簡潔ながらも流麗な文章。構造としても連作短編なので一話一話をさくさくと読め、それなのに気付いたら色々と考え始めている自分がいて、自分が取り込まれていることに気づくのです。

あぁ、少しずつ店に惹かれていく主人公も、きっとこんな感覚を共有していたのかなと考えると、面白くなってきます。

私の知っている限りにおいてこういう形態の店は現実には存在しませんが、上記を踏まえると、読書によって私はその店に訪れていたのかもしれません。

さて、以下はおまけ。

付記:心地良い孤独

 「孤独」と聞いて、皆さんが思い浮かべるのはどんな印象でしょうか。

試みに辞書を引いてみると、以下のように定義されていました。

【孤独】こ-どく

仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。

 自分はひとりぼっちだという感覚。心の通じ合う人がなく寂しいという気持ちを、特に孤独感という。

 こうして見てみると、ひどく後ろ向きで、出来ることならば味わいたくないネガティブな感情のように思えますが、では心地よい孤独とはなんでしょう。

そもそも孤独というのは、他者との関係、つまりは社会性によって初めて知覚されうる概念です。孤独を知覚するためには、孤独でない状態を知っていなければなりません。その対比によって初めて知覚しうるもので、例えば生まれたときから一人きり、だだっ広い荒野で誰にも会わずに育ったならば、その人は一生孤独というものを理解しえないでしょう。小説などを読んで(もし読めたとしたら)想像することはできるかもしれませんが、それは理解とは程遠いものです。

しかし当然現代にあって、なんらの社会性も持つことなく生きることは不可能である以上、必ずこの孤独というものは私たちについてまわります。

思うに「孤独」というのは「自分は他者とは違う」という認識からくるものではないでしょうか。例えば、友達がそのまた友達と複数人で食事に行ったという話を耳にしたとき、そこで感じる孤独は「自分はその場にいなかった」という事実によるもので、これはやはり明らかに「自分は違う(その集団に属していない)」という認識にほかなりません。人間の心理のひとつに、相手に自分との共通点が認められたら安心する、というものがあります。孤独を満たそうと連れ立って飲みに繰り出す人は、そこで無意識に相手との共通点を探して「あぁ、自分だけじゃなかった」と安心するのです。

さて、この孤独について、作中に興味深い記述があります。

どうもあの店は、私にとって「孤独増幅器」のように働きかけるようだ。店を出れば二度と会うことのない相手と、短い時間、二人だけで食事をする、たわいもない会話をする、あてもない想像をする。さてそのあとに何が残るのか、といえば、それは一人だけの自分であり、ふと気が付けば、鏡の前に一人たって、己の顔をじっと見つめている、そんな覚醒にほかならない。(中略)なるほど、これが孤独というものの作用か。自分の中へ切り込んでくるような力強さと、その刃先が全身を突き通すときのなんともいえない不思議な爽快さ。さっと風を切る一瞬のような清々しさ。慣れないうちは恐怖で目をつむってしまったけれど、一度無害だと慣れてしまえば、こんなに心地よいものはない。その刃が身を貫くたびに、私のからだが純粋に近づくような幻覚さえある。(P,121)

 考えてみると、この「孤独」というものには二種類あるような気がしてきます。

それはつまりベクトルの違いで「外から内へやって来る孤独」と「内から湧き出る孤独」です。私たちが恐れている孤独というのはこのうち前者にあたり、 またこの世に存在する孤独(言語表現としての孤独)のほとんどが、同じく前者にあたるでしょう。というより大体の人は、前者の意味でしか孤独という概念を使っていないのでしょう。

本書のテーマのひとつでもある「心地よい孤独」とは、まさに後者の「内から湧き出る孤独」のように思えてならないのです。そしてこの「内から湧き出る孤独」というのは、以下のようなことでしょう。

正直なところ、彼女に今一度会えるならば、と考えないではなかったけれど、しかし、それこそ野暮というもの。今夜の月は、きっと今夜だけのものなのだ。今頃、彼女も同じ月を見ているかもしれない、その想像にこそ価値がある、とようやくこの歳になってわかったしだいである。(P,90)

 

思考の限界

小説やラノベ、アニメなどの感想で「話のつじつまが合ってない」「設定が破綻している」といったような感想を時折見かける。その指摘はもちろん的を射ていることもあるのだが、僕の主観においては、実際にはそんなことはない例のほうが多いように思える。だとすれば彼らは、どうして「破綻している」と感じ得たのか?

「IQが20違うと話がかみ合わない」なんて俗説があるが、この問題はそれに類似している気がする。「IQが20違うと~」はもう少し言うならば「話題が合わない」という場合と「理解の速度の差が円滑な会話を阻害する」という場合があり、ここでは後者について言及する。

ここで注目したいのは、容易に理解ができない会話に際した時、それは論理的に理解することが不可能であるという意味でなく、あくまで理解の速度に差があるだけである、という点にある。これはスピードの問題でしかなく、時間をかけさえすれば理解に至ることができる。

そしてそれよりもずっと深刻な問題であるのが、脳の認知的な錯覚にこそある。つまり彼らが言う「破綻している」とは「自分には理解できない(時間をかければ理解し得る)」という意味で、それを無意識のうちに、作品のほうに問題があるのだと錯覚しているのだ。

「思考の限界」とは元々の意味を辿れば「言語表現の限界」に他ならないだろうが、各人における思考の限界(のようなもの)のほうがずっと、厄介な存在らしい。

三      事実の論理像が思考である

三・〇〇一  「ある事実が思考可能である」とは、われわれがその事態の像をつくりうるということに他ならない。

三・〇四   ア・プリオリに正しい思考があるとすれば、それは、その思考が可能であるというだけでそこからその心理性が引き出されてくるようなものである。

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https://www.amazon.co.jp/dp/4003368916/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_wR70CbTCFQ3RT

 

今日の、こんなゆるい企画でいいの?

愛と死に囚われている

僕にはここ数年、ずっと考え続けているというか、ずっと頭から離れないあるテーマがある。もちろんそのテーマだけが頭に思い浮かぶわけではないし、もちろんそのテーマについて毎日想いを飛ばせているわけでもない。せいぜい1日に1度とか、あるいは1ヶ月に1度とかの頻度で思い出して、時折思索してみる程度だ。スパンにこうもばらつきがあるのに、けれど年単位で見れば、数年考え続けていることになる。これこそが、僕が表題において「囚われている」とした所以だ。

そのテーマこそがそう、「愛と死」である。

 僕は相反するものが好きだ。対照的なものが好きだ。

わかりやすく音楽で言うと、疾走感のあるロックなバンドサウンドに、絶望的な歌詞が載せられている、といったようなものだ。

それは憂虞と恍惚とが、断続的に、入れ替わり立ち替わり押し寄せる。

「愛と死」のテーマについては、これまでそれぞれを独立させて考えていた。しかしここで、新しい見方として、これもまた同様に対になる2つの概念なのではないかという考えが思い浮かんだ。その意味で捉えるならば、「愛」とはそのまま「生」と読みかえて差し支えないだろう。

「生きることとは、愛することだ」と言いたいわけではない。これにはかなりの語弊があるし、生理的嫌悪や反感を覚えるものもいるだろう。

「愛とは生の証明である」という意味である。この場合の「愛」とは、言うまでもなく「Love」の意味にとどまらない。

これについては、これ以上語っても不毛なだけだろう。

 

クリムト展と、勉強の意義。

5月1日。水曜。東京は上野。東京都美術館で開催中の、クリムト展へ足を運んだ。

外交樹立150年、クリムト死没100年を記念した、大規模な展示。連日、大勢の人でごった返していた。

チケットを購入し、待機列にならんだ後、入場。会場内は人がひしめき合い、順路に沿った列をなしている。みんながその列の一部になって、その流れに見る対象、時間を意識もせぬままに管理され、それを当たり前だと受け入れている。

 

僕はこうした展覧会で、いつも決まって考えることがある。つまり人間の傲慢さというか、業みたいなものだ。過去の傑作であるとか、自然に生きる動植物だとかを折に閉じ込めて、アトラクションとしてパッケージングして、それを上からの目線で、我が物顔で評するのである。

言ってしまえば、その俗物っぽさが気持ち悪いのだ。全く洗練されていない。どろどろしたものが、地上にまとわりつくようにどんよりと沈んで、這いずるかのごとくうごめいている。どうしてそこまで無神経になれるのか。

 

とにかく鑑賞というものは、対話を試みることではじめて意義を持つ。美術鑑賞に限らず、読書でもなんでもそうだ。「良書を読むことは過去の最良の人物たちと会話することだ」と言ったのはデカルトだったか。

だから僕たちは、その絵の精巧さ、巧さに感動している場合ではないのだ。人物画を見て「なんか今にも飛び出してきそう」なんて使い古された表現を口なんて以ての外だ(これは実際に会場内で聞いた言葉、そのままである。ひどくナンセンスで頭痛がするようだ)。絵の上手さなんてのは、そこに展示されている以上大前提で、いちいち取り沙汰するほうが失礼だ。そこに何が表されているのかをこそ、僕たちは見るべきなのだ。そしてもちろん、対話というからには、こちらからも語りかけねばならない。

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対話を試みるためには、その前段階として、知識が必要になってくる。展覧会では音声ガイドというものがあって、その作品や背景についてを音声で解説してくれるものなのだが、その意味でこれは、通訳であると言えよう。

勉強の意義というのは、つまりここにこそあると考えている。鑑賞や読書に限らず、目に映るあらゆるもの全て、その解像度を高めてくれる効果を持っている。